いつもゴキゲンでいたいから…

自分らしくあるために。ジャンルを問わず、今日を書き留めていきます。

父の命日

今日10月30日は父の命日です。
父が亡くなったのは今から13年前、私が45歳の時でした。


父は昭和ヒトケタ生まれ。
その頃の人にしては珍しく音楽の趣味を嗜んでいたようで、バンドを組んでタンゴの演奏会をしていたようです。バンドの演奏会オープニング曲は「ラ・クンパルシータ」。



ラ・クンパルシータ アルフレッド・ハウゼ楽団 UPG‐0146


父の担当楽器はクラリネットでしたが、ギターも得意で歌が上手でした。
晩御飯の後にギターを出して来て笛を吹いてチューニングし、古賀雅夫の「酒は涙かため息か」「影を慕いて」などをよく弾き歌いしていたものです。



酒は涙か溜息か

田端義夫 古賀メロディーを唄う 《影を慕いて》


現役の頃はピアノの技術者として働き、退職してからはピアノの調律師をしていました。


父が63歳の時、母が57歳で他界。以来20年の間、父は1人で暮らして来ました。
私たち夫婦が同居するという選択肢もありましたが、夫の実家が許さず…父には寂しい思いをさせたと思います。


よく父は幸せな老後を送るために必要なものは3つあると言っていました。
それは お金、健康、孤独でない(連れ合い又は友だちがいること)だそうです。
父はそこそこ年金も貰えたし、健康でしたが、人付き合いが良いとは言えず孤独でした。
その点で完璧に幸せな老後だったとは言えなかったかもしれません。
同じように連れ合いを亡くした女性と付き合っていたこともあったようです☹️


健康に気をつけるあまり、多種多様のサプリメントを服用していたようで…
それが原因かどうか分かりませんが、後腹膜に良性の線維症ができました。
手術ができないので、ステロイド薬の服用しか治療の手立てがなく、最期は薬服用の副作用による感染症で亡くなっています。



【ここからは負のオーラが出るかもしれないので、読みたくない人は飛ばして下さい🙏】


私は姉と2人姉妹です。
父が入院する少し前から、姉は病気になりました(若年性パーキンソン病)。
姉が思うように動けないので、父の入院手続きや治療における同意書などは全て私がやることに。
私は父から通帳とカードを預かり、税金や公共料金、病院への支払い、日用品の買い出しをして、毎日父を見舞いました。


ところが「とらひめはオレの金を勝手に使っている」と父が姉に言い出したのです。
おそらくずっとベッドに寝たままだったので、せん妄が現れたのだと思いますが。
私を信頼してくれていると思ったのに、実の父に言われたのが悲しかったなぁ…😭


私は父から預かったお金の出納をパソコンに記録してあったので、それをプリントアウトして父に見せました。
父は震える手でそれを受け取り、老眼鏡をかけて数字を確認。
私はそんな父の姿を複雑な思いで見ていました。
病気が進み、父が治療の際に暴れるので、拘束の同意書を書かされたのも辛い思い出です。



父の入院は1ヶ月半でしたが、自分には長く辛かったとしか覚えていません。
ずっと家に帰りたいと言っていた父。
父を看取った後、葬儀場の安置室に向かう前に、葬儀会社にお願いして実家の前を通ってもらいました(葬儀会社は今、私がセレモニーのお仕事をしている会社です)。
「お父さん、帰って来たよ」


私の家では姉も私も嫁に出ていたので、跡取りがいません。
葬儀の後は実家仕舞いが待っていました。
(それについてはまた後日お話しします)



まだ父が入院する前、難病と闘う姉に生前贈与をしたそうです。でも、父は私に知らせるなと姉に言っていたようで…💧その事実は父が亡くなった後、姉妹間で秘密を持ちたくないと姉が私に教えてくれました。
父の財産だから、その使い道に私が意見するはずはないのに、どうして私に知らせるなと言ったのかしら?


父が若い頃、お金がなくて苦労したのは分かります。
私がお金を使い込んでいるとか、何故あんなにお金に執着したのだろう?
お姉ちゃんに比べて、私は可愛くなかったのだろうな…
それは父が亡くなってからもずっと、私の頭から離れたことはありません。


人間は辛い出来事に遭った時、自己防衛のために感覚が鈍くなるのでしょう。
嫌な思い出は、記憶の中にフィルターがかかったような感覚です。
父の入院、看病、看取り、実家仕舞いは、当時45歳だった自分にとって かなりヘビーな経験でしたから、ボンヤリとしか記憶に残っていません。



私が弾いているピアノは、父が退職する時に自らの手で作ったグランドピアノです。
その脚元に守り神として、調律用の道具が入っていた父愛用のカバンをずっと置いていました。


父の死から12年過ぎた去年、そのカバンを開けて中身を確認。
もう父は帰って来ないし、そのカバンに入っている道具を使って調律することもない…
父の調律師としての身分証と音叉を残して、他の物を処分しました。



私は45歳で両親を亡くしました。同年代の人からすると早い方だと思います。
こんな言い方をすると親不孝かもしれませんが、両親を見送って実家仕舞いをした後、私は本当に自由になれました。
私の年代では今、自分の親のことで苦労をしている方がたくさんいます(親をストレスと感じるかは、その人次第ですね😅)。


父を送った経験は大変でしたが、自分のこれからを考える良い機会となりました。


《とらひめ農園》は母が祖父から譲り受けた土地で、母亡き後は父が守り、そして今は私が夫の助けを借りながら、細々と野菜を作り続けています。
畑作業は大変ですが…土地を守り続けるのは、実家を継げなかった私の、父や母に対する罪滅ぼしのようなものでしょうか…


これから先のことは全く分かりません。
娘が自分の人生をどう生きるかにもよりますが、土地や家の相続で彼女に負担をかけたくないと思います。自分が苦労しましたから…
自分の判断力が衰える前に、土地や家の在り方を決めなくてはなりませんね。


13年が過ぎて、こうして思い返してみると…
あの頃は父が許せなかったけれど、今となってはどうでも良くなってしまった感じ。
亡くなった両親も、きっと「いいよ」と言ってくれていると思います。


幸いなことに…今、私は健康です(ちょっと劣化してきていますが😂)。
自分が頑張れる間は、この土地を守りながら目いっぱい楽しんで生きよう!
そう決めました。


今日はちょっと重くて負のオーラ満載のブログになってしまいましたね💦
明日からはまた元気印でいきます😝
私の思い出にお付き合いして最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍀