いつもゴキゲンでいたいから…

自分らしくあるために。ジャンルを問わず、今日を書き留めていきます。

勤労学生のお話

今日はセレモニーの仕事がありました。
偶然にも今回の故人さまは、かつて私の上司だった方です。
今から30年近く前、私が仕事に復帰した最初の学校で、この方と ご一緒させていただきました。



ご遺影を拝見しますと、懐かしさが こみ上げて来て…当時のことが次から次へと思い出されます。
それで今日は 少し長くなりますが(いつも?😅)、私の思い出話にお付き合いください。
(もちろん気が進まない場合は、読み飛ばして下さいね💦)


当時、働きながら子供を育てる環境に恵まれなかった私は、育児休暇後に職場復帰することなく退職し、専業主婦として過ごしていました。
社会に出て働きたいと思いつつも その機会に恵まれませんでしたが…ある時、勤労学生のための企業内学園で講師をする話が来たのです。
その学校は、私が住んでいた所の近所にある紡績会社の工場内にありました。


私の街では古くから織物が盛んだったので、織物の糸を作る紡績工場、染物工場が広大な敷地に建っていました。
その中には労働者のための社宅や寮があり、独自のコミュニティーが形成されていたのです。


工場で働く人の年齢はさまざまで、特に戦力となるのは若い世代。
会社では求人で中学を卒業した後、諸事情により進学できない子を広く募集し、工場で働きながら勉強させ、高校卒業の資格を取らせていました。
それが勤労学生と言われる子たちで、彼らは公立の昼間定時制高校へ通ったり、工場内に併設されている企業内学園で勉強していたのです。



当時の生徒は1学年40人くらいで、20人ずつⅠ部とⅡ部に分かれます。

Ⅰ部の生徒は午前中が労働時間。

朝5時頃から途中食事休憩を挟んで13時頃まで働き、15時少し前から学校にやって来ます。そこから3時間授業を受け、18時頃に終業。


Ⅱ部の生徒は午後が労働時間。
朝9時頃に登校し、3時間授業を受けて終業。
昼食をとった後、13時頃から21時頃まで働きます。


これらのⅠ部とⅡ部は、1週間ごとに入れ替わり制でした。


勤労学生は全寮制です。
寮は2人部屋か4人部屋で、プライバシーなどはありません。
彼女たち(途中までは男子もいた)は工場と学校、寮の往復ばかりで殆ど自由時間はなく、たまの休みだけしか敷地の外に出られませんでした。

過酷な労働なのに低賃金で、寮費と授業料を天引きされると彼女たちの手元には毎月3万も残らなかったようです。

正社員なのでボーナスは出ますが、中卒なので、片手ほどしかもらえないようでした。


彼女たちの処遇は『あゝ野麦峠』で描かれた女工哀史そのもの。
この話の時代は明治・大正でしたが、平成の時代であっても、そのような労働者は存在していたのです。



『野麦峠』の舞台は長野県にあった製糸工場で、登場する少女たちは岐阜県飛騨地方の貧しい山間地域の出身です。
私が関わった勤労学生たちは それとは少し違っていて、兄弟がたくさんいる大人数の家族だったり,乳児院出身で親がいない、または親が服役中といった複雑な事情を持つ子ばかりでした。
工場で働いている間に、親が自己破産して夜逃げ→行方不明になり、半狂乱になって探し回ったというケースもありました。


最初、この仕事の話があった時、普通高校(しかも進学校)しか勤務経験のない私に務まるかどうか不安しかなかったのですが😅
仕事に復帰するチャンスを逃したくなかったので この学校で教えることになりました。


学校といっても企業内学園なので、それらしき設備は殆どありません。
もちろん音楽室も楽器もありませんでした。
普通教室を2つ分、間仕切りを取り払った大教室が講堂で、そこで入学式や卒業式、体育の授業まで行います。
講堂の片隅には何年も調律していないアップライトピアノが1台置かれていて、そこが音楽室の代わりでした。


初めて彼女たちに会った時はビックリ。
当時は安室奈美恵が大流行りで、皆んな《アムラー》でした😂
顔黒メイク?山姥メイク?の出立ちで、脚にはルーズソックス。



見た目はドン引きなのですが、実際に話してみると 人懐こくて素直。
過酷な環境に置かれている彼女たちでしたが、その苦労を感じさせない明るさが、かえって悲しかったです…。


私が その学校に勤め始めたのは2月。
年度途中から勤務だったのは、前任の先生が急に学校へ来なくなったからでした。


3月になって卒業式が近づいた時、彼女たちから卒業式でピアノの伴奏をして欲しいと頼まれました。
それまで音楽専任の先生がいなかったために、CDラジカセで校歌や『仰げば尊し』などを歌っていたと言うのです。
「CDの伴奏だと歌う気しないんだよねー」
学校(会社)に卒業式で伴奏させてほしいと頼むと、その分の賃金は払えないから(契約されている授業に含まれないので)ダメだと言われてしまいました。
でも私は彼女たちのために伴奏したかったので、無給でボランティアとして卒業式に参加させて欲しいと頼み、弾かせてもらうことになったのです。



仰げば尊し_コロンビア合唱団

蛍の光


このような学校は特殊だったので、おそらく公立高校に勤め続けていたら、全く知ることのない世界でした。
難しい部分もたくさんありましたが、とにかく生徒1人1人を尊重すること、よく話をして 彼らが何を考えているか掴むこと…それが ここで教えることの基本だったと思います。
この学校での経験があったから、私は どんな生徒が相手でも教えられるようになりました。


そんな企業内学園でしたが、時代は進み…会社はより安い労働力を求めて、外国人労働者を雇うようになります。
私が その学校に勤め始めて間もなく、会社は勤労学生の新規募集を停止し、学園は閉校となりました。


その最後の学園長が、今日の故人さまだったのです。



あの頃の勤労学生は今、40代半ばでしょうか。
その後、彼女たちは どんな人生を送っているのかしら…?


30年が過ぎた今、私が勤めていた学園のあった紡績工場は取り壊され、その跡地には巨大なショッピングモールが建っています。
当時の面影を残す物は、何一つありません。
残っているのは、ここに工場と学園があったという私の記憶だけです。
でも、この経験は自分にとって宝でした。


いろいろなことがあって…今の《私》ができている。
当時の思い出を噛みしめながら、今日の故人さまを送らせていただきました。
今日も無事にお見送りできて感謝でした🙏