いつもゴキゲンでいたいから…

自分らしくあるために。ジャンルを問わず、今日を書き留めていきます。

共通一次試験→センター試験〜我家の場合✍️前編

今日から2日間は大学共通テストですね。
私の世代では共通一次試験と呼ばれていて、国公立大へ進学する場合は必ず受験しなければなりませんでした。


共通一次の翌日、新聞にテスト問題が掲載されると、勉強熱心だった母は
「他の教科は無理だけど、国語(現代文のみ)だけなら少しはできるかな?」と挑戦。
高校で国語教師をしていた姉は、自分の教科の問題を必ずチェックしていました。
でも、私にとって共通一次は…全く良いイメージがありません。



この受験体制になったのは1979年だそうで、それまで国立大学は一期校、二期校に分かれており、それぞれ1校ずつ受験できました。
私の姉が大学受験の時は、まだ一期、二期の時代でしたが、私が受験の時は共通一次の時代。
共通一次は受験する学科に関係なく、芸術系の学科へ進学する場合も受験しなければなりませんでした。


私は5教科まんべんなく勉強するのが苦手です。
特に理数科目が弱かったので、共通一次は自分にとって無理でした。
まぁ勉強は皆んな嫌いでしたが🤣音楽だけしかできない、一点豪華主義✨
それで音楽大学に進学させてくれるよう、両親を説得したのです。


芸術系、ことに音楽大学は学費が高いので、国公立の芸術大学に進学したいと思いました。
そこに立ちはだかるのが共通一次試験。
今は国公立の芸術系を受験する場合、2教科になっていますが(少し前は3教科だった)、当時は5科目全てを受験しなければなりませんでした。



芸術系を学ぶ学生にとって憧れの的である東京藝術大学。
ここを受験する場合も共通一次の5教科が必要で…泣く泣く諦めました。
狭き門なので、奇跡が起きることもなかっただろうけれど😂記念受験でもいいから受験したかったです。



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共通一次試験がセンター試験と名前を変えたのは1990年。
娘が受験した今から14年前は、センター試験の時代でした。


好きな勉強しかしなかった私とは違い、娘はどの教科も良くできたので、地元にある国立大学の推薦を獲得。
でも、そのような場合でもセンター試験は必要でした。
ある一定の点数を取らなければ、高校で推薦してもらっても不合格になります。


ひとりっ子の娘はアレコレと私たち親が手を出し過ぎたせいで、箱入り娘😅
親元を離れての学生生活は無理だと思ったので、娘も親である私たちも、最初から その大学1つに絞って受験勉強をして来ました。
推薦で受験を決めるために、娘はセンター試験に照準を合わせていたのです。


受験会場は娘が通う高校だったので、まるで学校で普段に受ける模試のような感覚だったらしいですね。


試験の時、受験生は廊下に全ての持ち物を置いて、試験会場の教室に入ります。
当時から携帯電話は普及していましたが、通信手段はメールと通話のみ。

1教科終わるごとに娘はテストの出来具合をメールで送って来ました。
「ヤッタゼ」と来たり「もうちょい」「まずまず」とか…
娘からの連絡に私たちは一喜一憂しました。


そして自己採点の結果は…
(私は娘の受験に関して全く分からないので、大学受験に詳しい夫に丸投げ💦)



娘の武器は英語でしたが、そちらでは失敗し…
いつも模試でやられてばかりの国語に救われたようです。
理数系の科目はいつも通り普通にできましたが、得意とする教科で成功を納められなかったことで、娘としては「センター失敗」と敗北感を味わったようでした。
それでも一応、推薦のラインである点数は超えていたようです。



結果、娘は2月の推薦入試で志望校に無事合格することができました。
今でもこの時期になるとセンター試験の話になりますが、娘は良い顔をしません。


「受験はね、人を変えるからね」


まさにその通りで、受験のせいで人生が変わったケースをたくさん見て来ました。


本来の受験の意味は、その学校で学ぶのに相応しい学生に入学してもらうためです。
でも現状は、受験生を共通テストによって一斉に線引きするという実態。
時代や社会状況を合わせて、受験の形態も変わっていく必要があると思うのですが…
これからの時代を作る若い人を どうやって育てるか。
それは国策だと思うんですけどね💦



大学共通テストと名前は変えましたが、私にも娘にも それぞれの想いがありました。
そして…忘れてはならないのが、夫と共通テストとの関わりです。
これについて語ると、更にブログが長文になりますので(いつも長いですが🤣)…
後編は明日にいたします😂


お読みくださり、ありがとうございました😊