いつもゴキゲンでいたいから…

自分らしくあるために。ジャンルを問わず、今日を書き留めていきます。

感動は与えられるべきものか

私はテレビドラマや映画を あまり観ません。
関心がないわけではありませんが、その中に誰かが《作った》観が見えると興醒めしてしまいます。
どうも私は映像作品の中にリアリティを求める傾向にあるようで…ドキュメンタリードラマと呼ばれる物が好み。


ドキュメンタリードラマは実話に基づいて作られます。
ドラマ性に乏しい場合は多少脚色されますが、「それ、本当?」とツッコむこともありません。
要するに私は、いわゆる《盛った話》が苦手なのです😅



ドラマや映画を観ない代わりに よく観るのはスポーツ。
ことにゲーム性のあるスポーツは「筋書きのないドラマ」と表現されます。
一生懸命プレーする選手の姿には感動しますよね✨


最近は競技後、すぐに選手へインタビューが行われることがあります。
選手の生の声が聞けるので、それも楽しみの1つなのですが、たまにガッカリしてしまうのは…
「感動を与えられて良かったです」という選手の言葉。
え?あなたのパフォーマンスは、人に感動を与えるためのものなの?😳
誰かに感動を与える…というのは一見、模範解答のように思えますが、ちょっと違うんじゃないの?


人は一生懸命にプレーする選手の姿を見て、感動します。
感動するか、しないかは見ている人の側の問題であって、誰かに強要されるものではないと思うのですが。
しかも「与える」という言葉は、上から目線のような感じさえしてしまう。
このように思うのは私だけかしら?😅


例えば私がしている音楽も、誰かを感動させようと思ってするものではありません。
より良く、美しい音楽をという一心で演奏します。
もし そこに傲慢さがあったり、技術をひけらかすような思いや、お金儲けしたいというような《邪な心》があれば、たちまち安っぽい音楽に。


ドラマもそうで、観ている人を泣かせようという脚色は、作り物という感が大きくなります。
観ている人の気持ちをコントロールしようと目論むドラマは、何だか疲れてしまう。
特に最近は《感動する》ことを強要される作品が多いので、知らず知らずのうちにドラマや映画を観なくなってしまいました。
でも、これは私の心が錆びついてきたことの表れなのかもしれません💧


たまには素直に感動してみたいと思いますが、感動するのは私。
感性のアンテナを磨いて、いつまでもピュアな心を持っていたいな✨


昨日から開幕したプロ野球。
私の応援するベイスターズは2連勝‼️
ルーキーである度会隆輝選手の一生懸命にプレーする姿に感動しました😆
ぜひ、今年も頑張って欲しいな♫ 期待してます✨