いつもゴキゲンでいたいから…

自分らしくあるために。ジャンルを問わず、今日を書き留めていきます。

信じる心

今日はセレモニーのお仕事がありました。
今回は無宗教のお葬式です。
以前にも お話したと思いますが、無宗教の お式は珍しく、年に1回あるかないかくらい。


宗教者を お呼びしない場合、お式は黙祷に始まり、ご焼香または献花→喪主さまの ご挨拶→棺への花入れ→出棺となり…黙祷を除いて ずっと演奏し続けなければなりません。
通常、開式1時間前からピアノを弾き始めるので、1時間半〜2時間は弾き通し😅
なかなか大変なのです。


冠婚葬祭は宗教者が司式することが多い中で、無宗教の お式を望まれるのは何故だろう?と考えてしまいました。
私たちは日頃、宗教を特に意識していませんが、日本には古来から神道があって、仏教が伝来してからは それらがミックスした形で、社会制度や風習として人々の生活に根ざしています。
近年、それは変わりつつありますが…。



私たちが宗教について語るのは、何となくタブーという感じがするのは何故でしょうか。
それは恐らく新興宗教についての問題が大きく関わっているような気がします。


新興宗教(カルト)というのは、伝統的な宗教ではなく、比較的新しい時代に成立した宗教。
その多くは創始者や教祖が個人崇拝され、教えを信じることで 人々が抱える日常的な問題が解決されていく…といったことで、爆発的に広がっていきました。
過去にはイエスの方舟、オウム真理教、最近では統一教会が それに当たります。
さまざまな社会的問題を引き起こすケースが多いので、私たちは『宗教=新興宗教=危ないもの』というイメージになっているのかもしれません。
そのような宗教は、困難な状況にある人が救いを求める場合や、若者が社会について矛盾を感じたりする時、弱った人の心を捕らえてしまいます。


実は私、大学生の頃、新興宗教に引っかかってしまったことがありました。
その頃、歌の師匠と問題を抱えていた私は、思想の勉強会に誘われて参加したのですが、実はそれが とある宗教の会だったのです。
幸い、私の異変に気付いた母が 救い出してくれたので、大事には至りませんでした😅


母は私を救い出すために、亡くなった母の姉(つまり私の叔母)が親しくしていたキリスト教の教会の方に助けを求めて、そんな経緯から 私は教会に通うようになったのです。


私の目から見たキリスト者は、悩み事などなく、正しい人たちで清廉潔白。
私も信者になったら そのようになれるのかしら?🤔


「あなたは音楽という賜物(=頂き物のこと)を神様から与えられました。
あなたは その使い道について、よく考えなければなりません」
これは当時の牧師先生から言われた言葉です。
自分が何故、音楽をするのかということを考えていた私は、その言葉がきっかけとなり、大学卒業と同時に受洗してキリスト教信者になりました。


その時は何となく勢いで受洗してしまったけれど、キリスト教信者になったからといって《清廉潔白な正しい人》になれるわけでもなく…
キリスト教は御利益宗教ではないので、特に良いことも起きませんでした(当たり前だ😂)。
でも、私の音楽は 教会のオルガンを弾いたり、教会コンサートに出演することで生かされました。


その後、教会員の方の紹介で お見合いした夫と結婚。
夫はキリスト教信者ではなかったので、婚約式は教会で挙げましたが、結婚式は夫の実家の手前、神式でした😅
結婚とほぼ同時に母が亡くなり、父は仏教で母を送り、お寺に お墓を建てました。


キリスト教は神は1つしかいないという『唯一神』の信仰です。
これは他の宗教や その神を否定するということ。
なので私が神式で結婚式を挙げたことは教義に反したことですし、仏教で送られた母の墓前には お参りできないということになります。


それだけではありません。
初詣や地域のお祭りは神道のことですから…神社にも お詣りできない。
これってどうなんだろう?
それが私にとって一番の疑問でした。


私がキリスト者となったのはキリスト教の説く『隣人愛』に共感したからです。
また、旧約聖書にある十戒は、人の在り方の基本(1〜3は教義的なので除きますが)。



そんなモヤモヤを抱えつつ、教会生活を送っていましたが…ある決定的なことから、教会へ行くのが嫌になりました。


キリスト教では何かがあって教義から離れることを『つまずきの石』と言います。
私にとって『つまずきの石』となったのは、同じ教会員の信者でした。


我家ではクリスチャンは私だけ。
日曜日の朝、自分だけが礼拝に行くために家を空けるのは なかなか難しく…私は自分がオルガン当番の時だけしか礼拝に行けていませんでした。
そんな私を、ある信者が『オルガン・クリスチャン』と揶揄したのです。
また、他の方からは教会総会にも参加せず、教会活動に関わっていないと面と向かって言われました。
多くの場合、クリスチャンは自分の主張には 神様の後ろ盾があると確信しているので、自分の言うことを曲げません。


『清廉潔白な人』というイメージのクリスチャンだったはずなのですが…度を超えていると こんな風になるのかな?
私の通っていた教会は古くからある伝統的な教会で、信者は固い考えの人ばかり。
そんな状態なので牧師は居着かず、次々と変わっていたのでした。


そのことがあってから、何だか急にバカらしくなって…
ちょうど指がヘパーデン結節で痛くて、オルガンを弾くのが辛かったのを理由に教会から離れてしまったのです。
以来、教会へは行っていません。


教会から離れて、改めて色々考えました。
良かったことは…父や母の墓前(といっても永代供養させていただきましたが)に心置きなく お参りできることと、神社仏閣へ普通に お詣りできること。
これは何だかホッとしました。


何故、宗教は存在するのだろうか?
それを思って、あれから何冊か本を読みました。
歴史的には、過去の主権者は中央集権の政策のために宗教を利用したということです。
ヨーロッパにはキリスト教を、日本には仏教を。


何のために生きるのか、死んだらどうなるのか、誰も分かりません。
人は その答えを求め続け、それで宗教は生まれたのだと思います。


何だか今日は自分の黒歴史を語ってしまいました💧
まだまだ書きたいことはあったはずなのですが…それはまたの機会に致します。
(本当は こんな事を書くつもりではなかった😅)



今日の お式は無宗教でしたが、喪主さまや ご家族皆さまは、心を込めて故人さまをお送りなさっていました。
今日も無事にお見送りできて感謝でした🙏